2008年10月24日金曜日

10月19日 披露宴のたとえ (イエスのたとえ話 26 )

マタイ22:1~14

先週に続いて、宴会のたとえ見ていきます。前回は「ある人のある宴会」だったのに対して、今回は、「王が王子のために催した結婚披露宴」という設定です。少し具体的ですね。この「披露宴のたとえ」(マタイ22:1~14)は、「ふたりの息子のたとえ」「悪い農夫のたとえ」とあわせて共通のテーマで語らえた言わば3部作のたとえの最後の部分です。「ユダヤ人の指導者たちが、彼らが待ち望んでいたはずのキリストであるイエスを拒むことによって、罪人や異邦人たちにも救いが広がっていく」というメッセージを、この3つのたとえは伝えています。イエスはその異邦人たちの救いの計画を語りつつ、その根底には本来招かれていたはずのユダヤ人に対する深い悲しみが表現されています。従って、福音の世界的な広がりを暗示するたとえでありながら、何ともせつなく、どうにもすっきりしない印象を受けます。聞き手の抱える問題のゆえに、イエスはたとえに宴会の楽しさや本質を盛り込むことができなかったのです。
ユダヤ人の指導者たちは、唯一の神を教えられながら、救いを心や思想の問題にすりかえてしまいました。人間の言い伝えや規則を民衆に説きながら、それによって自分を高めようと努力していました。神様に罪が赦されることより、人から尊敬されることやよく思われることを重んじたのです。(ヨハネ5:44)また、群衆たちも、最初はご自分が救い主であることの証拠としての癒しや奇跡を行われている間はイエスに付き従っていますが、政治的状況が改善されないことを見て失望し、やがて離れ去っていきます。先々週にお話した「古い着物に新しい着物を継ぐ」という愚かな目論見は、いずれをも無価値にしてしまうのです。古い着物一枚しかないときには、それを着るしか選択肢はないわけですが、新しい着物があればそれを着ればいいけです。わざわざそれを切り刻んで、古い着物を繕う必要はありません。ところが、彼らは新しい着物をそのまま着ようとは思わなかったのです。今日のメッセージの核心部分もこの新しい着物と関連しています。あくまでも自分たちの古い価値観のものさしでイエスを測り、相互の評価や既得権にこだわっています。(マタイ21:23,45~46)
このたとえの中で、語られている王とは「父なる神」であり、王子とは「御子イエス」であり、披露宴とは「教会の交わり」すなわち「救い」です。そして、招待しておいたお客は「ユダヤ人」を、大通りで集められた人は「異邦人」を指しています。当時のユダヤでは、客を招待しておいても時刻は知らせず、準備が整ってから召使が案内して回るのが普通でした。ユダヤ人は自分たちが招かれていることを承知の上で、はっきり拒みました。その理由は畑や商売などのためでした。(同22:5)宴会への出席を拒んだ理由については、ルカが紹介したたとえほど詳細は書かれていないのも特徴的です。仕方なく、しもべたちは通りに出て行ってあらゆる人を招きました。こうして、世界中に福音は広がり、たまたまそこにいあわせたような人、旧約聖書を知らない昨日まで偶像を拝んでいたような私たちにさえ救いが及びました。ですから、その中にはいろんな人がいて、中に礼服を着ていない人もいました。    
ユダヤでは旧約の時代から、王様は招待客に晴れ着を送る習慣がありました。この礼服こそ、最大のポイントなのです。この礼服とは何を意味しているのでしょう。果たして、王はそれぞれの「人」ではなく「礼服」を招いたのでしょうか。救いとは単なる天国の数あわせのようなものなのでしょうか。しもべは、誰でもいいから、往来で見かけた人を良い人も悪い人も集めて来たわけです。良い人が受け入れられ、悪い人が拒まれるというのなら、まだ納得がいきますが、ここでは「礼服を着ているか着ていないか」ということが、この披露宴の参加資格になっています。礼服を着ている悪い人は楽しく飲み食いをしているのに、礼服を着ていない良い人は手足を縛られ放り出されるということも当然起こり得るのです。この極端なまでの扱いの差はどうしてなのでしょう。皆さんは不思議に思われませんか。このたとえは、「礼服」が何を象徴するものなのかわらなければ、絶対理解できないし、納得のいかないたとえです。私もはじめてこのたとえを読んだときには、何となく気分が悪くなりました。もともとどんな種類の宴会も嫌いな私は、誰がこんな王様の招きに応じるものかと反発を覚えました。つまり、簡単に神さまの思惑通りには反応したくない。安易に神さまにしっぽをふって気に入っていただこうなんて思わなかったのです。これは、無知だった頃の私の個人的な感じ方でした。しかし、この礼服の意味することの深さと愛がわかり、自分の罪がわかり、今ではこの礼服なしに神の宴に出ようなどということは想像だに出来ません。
この礼服は、神が備えられた新しい着物です。それは、イエス・キリストの義を象徴するものです。そしてそれを着ていくという行為は神への信仰告白です。その告白の内容はこういうものです。即ち「私は罪人であり、イエスおひとりが義であり、そのイエスの義が私の罪を覆っている。だから、神はキリストの義のゆえに、罪人の私をそのままで受け入れることができるのだ」という告白です。ですからこのとき、「私が何者であるか」ということは大事なことではないのです。たとえの中で、全くどうでもいいような人がその個人の資質とは無関係に、言ってみればかなり乱暴に招かれていることにちょっと奇異な、あるいは不快な印象を持たれたかも知れません。しかし、そういう描き方をしなければ、この一番重要な救いの真理は伝わらないでしょう。招かれる側には「礼服を着ている」ということ以外には、王がプラスの評価する要素は何一つないのです。(ガラテヤ3:26~27)ですから、逆にその礼服を着ていない人は、王からもらった礼服を軽んじることによって、その威光を傷つけ、名を汚したのです。つまり、披露宴そのものを軽んじたのです。先程お話ししたように、この礼服は招かれた際に、王のしもべによって無料支給されていました。誰でもその気になれば、それを羽織って参加することが出来たのです。そして、それはキリストの義と贖いの必要を認めず、自分の罪を軽んじ、救いを拒んだことに等しいのです。
救いは、決して人間の努力や犠牲によって得られるものではありません。「天の御国は、・・・王にたとえることができる」とこのたとえの冒頭にあります。(マタイ22:2)天の御国とは、父なる神ご自身の人格そのものなのです。これこそ、救いにおける最も重要なポイントです。宴会の本質はまさにそこにあります。宗教の描く天国は、「平等で平和な世界」「病気や死がない世界」というようなものでしょう。祈りのことばや賛美の歌があっても、そのことばが流暢で、声が大きくても、人となられたイエスがおられない世界は本質的に空っぽなのです。なぜなら、イエスは御国の王子であり、王は結婚を祝いたいのです。この結婚とは、キリストと教会の結婚です。つまり、この祝宴は、「神と人とがひとつになるという奥義」を表現した祝宴です。それがどれほど重要なものであるかは言うまでもないことです。何にも勝って最優先すべき事柄なのです。王と王子はひとつです。父と御子がひとつであるように神と人が一つになり、兄弟たちもキリストにあってひとつになるのです。救いとは、神がどのような方かということを味わうことに他なりません。前回は、私たちの中にある最も大切な救いの証は、「イエスに対する愛」であると申し上げました。愛する相手がどのような人格の持ち主であるかを知らずに愛することなど絶対出来ません。神のひとり子イエスを知ることが父を知ることであり、イエスによって示された愛が私たちへのメッセージです。神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛されたのです。(ヨハネ3:16)御子を与えた父は、御自身以上のものを与えたののです。この王(王子)とひとつになってユダヤに来られたのです。(マタイ21:5)以上が、私たちがこの宴会に集って味わうべき内容です。
私たちがそれを味わう前提として、御子の血による贖いが、まず父の義をなだめています。「父の義をなだめる礼服」がひとりひとりのために準備されることなしに、この婚礼の祝宴はありませんでした。礼服は神の小羊イエスの血が流され、その皮を提供することで得られたのです。「なだめの供え物」とはそういう意味です。そもそも、この宴会は私たちが計画したり、参加をお願いしたりしたのではありません。パーティ―券を買ったのではなく、一方的に礼服を与えられ招かれたのです。これはすべて父の企画、父の演出です。この結婚は父の願いであり喜びなのです。そして、それは何よりも王子のためです。招待客のために披露宴を催すのではありません。救いを救われる側の人間中心ではなく、救う御子中心の視点でとらえて聖書を読んでいけば、これまでとは違うものが見えてくるでしょう。長い時間かけて準備され、待ち望んで来られた父の熱心さに比べたら、私たちは、このたとえにある通り、「たまたま道を歩いて王のしもべに出会った悪人」に過ぎないわけです。「誰も私を十字架につけたものはいない。自分から十字架にかかるのだ」(ヨハネ10:18)というのが、イエスの証言です。こういう角度から十字架や復活を見ていく必要があります。古い衣に新しい衣を継ぐようなみことばの引用は避けるべきです。古い衣を脱ぎ捨てて、新しい衣をそのまま着るのです。それが礼服を着て宴会に参加するということです。
救いに関するもうひとつの大きな誤解をもう一度はっきり修正しておきましょう。それは、「救われればいくらか立派になるはずだ」という考えがやはり根深くあることです。つまり、何らかの超自然的な力で道徳的になっていくのではないかと思うのです。生まれながらの人間性を改良、あるいは修正して立派になれると考えるのは大きな間違いです。聖書は生まれながらの人間性を「肉」と呼んでいますが、これは、キリストに反するもの、御霊の思いに敵対するものです。これは、古い着物、古い皮袋なのです。もう一度繰り返します。古い肉に神の領域の霊的なものを継ぎ接ぎすることはできません。古い皮袋に新しいぶどう酒の力がみなぎるとそれは破けてしまうのです。私たちは.全く新しいいのちである御霊の実を結みます。御霊の実は、みことばという種が成長したものです。かたちや色や香りが似ていても、みことばの種が結んでいない実は、御霊の実ではありません。品種改良された古きものではありません。クリスチャンでなくても、柔和な人、親切な人はいくらでもいます。しかし、それは、神の前に喜ばれるようなものではありません。それは、白く塗った墓(マタイ23:27)であることが多いのです。礼服を着ていない良い人は神の宴会に連なることは出来ないのです。それが神の基準であり、神の評価です。クリスチャンの妙なエゴを強調する人は、このあたりをどこかはき違えています。自分が値なしに受け入れられていることを思えば、信仰を持っていない人たちを理由なく見下すような態度は間違いであることに気づきます。彼らはかつての私たちのように往来を歩いているだけなのです。御霊の実を結んでいても、イエスから目を離せば罪を犯します。ダビデやペテロの失敗を見れば明らかなように、どれだけ偉大な信仰の人であっても、その人の信じる力が充電されて、その人自身が立派になって、神の助けなしでいられる瞬間などないのです。イエスから目を離せば、誰であれすぐに転落します。救いとは、免許をとるようなものではありません、しっかりと目を見開いて運転し続けることなのです。洗礼を受けておいたから安心とかいうようなものではないのです。
「主イエスキリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」(ローマ13:14)とパウロは言っています。礼服を着ていることが、なぜここまで大きな問題になるのかはこれでおわかりだと思います。