2008年10月24日金曜日

10月5日 新しい着物・新しいぶどう酒・新しい皮袋 (イエスのたとえ話 24 )

「だれも、新しい着物から布切れを引き裂いて、古い着物に継ぎをするようなことはしません。そんなことをすれば、その新しい着物を裂くことになるし、また新しいのを引き裂いた継ぎ切れも、古い物には合わないのです。また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒は流れ出て、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません。また、だれでも古いぶどう酒を飲んでから、新しいぶどう酒を望みはしません。『古い物は良い』と言うのです。」(ルカ5:36-39)

 このたとえは、レビこと取税人マタイが自宅を開放して催した宴会の席で語られたものです。パリサイ人たちは、「なぜイエスが取税人や罪人たちと一緒に飲み食いするのか」とたずねた後、イエスの答えには納得いかず、さらに訴えます。それは、「ヨハネやパリサイ人たちは、断食や祈りをしているけれど、あなたの弟子は食べたり、飲んだりしています。」(ルカ5:33)という内容でした。要するに、律法を重んじている人たちはがんばってしんどくてつらいことに耐えているのに、あなたの弟子は、全然がんばっていないじゃないか。楽(らく)をして楽しそうじゃないかと言っているのです。これは実に面白い指摘で、今のキリスト教の世界でも、同じような様子を見ることができます。本当はやりたいことを無理して辛抱している人は、他人にもその辛抱を強要する傾向があります。そればかりか、「どれだけ辛抱しているか」で人を測る物差しにさえします。これは実に宗教的です。放蕩息子とそのお父さんの物語で、兄息子が弟の放蕩を軽蔑しつつどこかでその自由を羨望し、自分は窮屈で辛くてしかもそれを辛抱し続けてきたのに、お父さんは評価してくれなかったじゃないかと文句を言う心理状態と同じです。この問いかけに、イエスがどのように解答されたかに注目しましょう。「花婿がいっしょにいるのに、花婿につき添う友達に断食させることが、あなたにできますか。しかし、その時がやって来て、花婿が取り去られたら、その日には彼らは断食します」(ルカ5:34~35)つまり、イエスの答えは、「彼らは花婿を喜んでいるのだから、喜んでいいのだ。」という主旨のものでした。律法主義者達が、自分の信仰のスタイルこだわっているのに対し、「福音を受け入れた人たちは、単純にイエスとともにあることを喜んでいるのだ」ということです。
 このことをさらにわかりやすくするために、イエスは今日の中心主題である「新しい着物と新しいぶどう酒と新しい皮袋のたとえ」を話してくださいました。なぜあえてこういう表現をしているのか、やがて明らかにあると思います。それでは、宴会をしているレビの食卓に招かれたつもりで読み進みましょう。レビの家に招かれた人達の中には裕福な人もいれば、貧しい人もいたでしょう。おそらく、継ぎはぎだらけの上着をまとった人もいたでしょう。しかし、食卓の上には何種類ものぶどう酒が並んでいたし、料理もふんだんにありました。わざわざ「大ぶるまい」と書かれているぐらいですから、かなりの規模だったはずです。何しろレビは取税人ですからかなりの金持ちです。金はありましたが、多分ケチだったので、こうして振る舞う友もなく、こういう楽しい機会もあまりなかったはずです。ですから、レビはこういうホスト役としては全く不慣れだったと考えられます。この宴会も、お酒や食材はふんだんにあったでしょうが、それほど洒落たパーティーではなく、どことなく締まりのない品格や美意識に欠ける宴会だった違いありません。「趣味の良い」パリサイ人たちにしてみれば、見かねる様子だったのかもしれません。しかし、レビはイエスと出会って自分が変えられたことが嬉しく、イエスが自分の催した宴の中心におられることが嬉しく、そんなイエスを何とかして皆に紹介したかったのです。以上がイエスがこのたとえを語られた背景です。イエスは、そこに居合わせた人たちの心を読み取り、誰もが今身に着け、味わっているものから、わかりやすく話されたのです。
このように、私たちの日常の中には、多くの神の教訓やメッセージが隠された宝のように埋め込まれています。それらをひとつひとつ丹念にみことばによって掘り起こすような感性が必要だと思っています。今年、私がイエスのたとえをひもといてひとつずつ出来るだけ丁寧にお話しているのは、単にそのたとえの意味を解説するためではありません。イエスが人として、この世界で何を見、何を感じ、目に見えない世界をどのように解き明かされたのかを知ることによって、私たちが「今、目にしているもの」を「目に見えない本当の価値」と正しく結びつけるためです。イエスは神の子であるがゆえに、その全知の力で、世界の設計者として、被造物の世界を解き明かされたのではないと、私は思っています。イエスは人としての経験を通して成長され、人としての感性を培われました。目に見えない世界や永遠のことも、人として、信仰によって獲得されたのだと考える方が聖書的です。たとえから学ぶこと、それは、イエスの信仰を学ぶことなのです。
 たとえの内容に戻ります。当時のユダヤ人は大きな布で出来た上着を身にまとっていたようです。その上着を、貧しい人たちは年中ほとんど一枚か、ほんの数枚だけで過ごしていました。時に布団代わりにもされました。そんなわけで、それは古びて傷み、継ぎはぎもたくさんあったでしょう。乾燥した地域ですから、日本とは違い、かなり長い期間着たきりというのが一般的だったのでしょう。 「もし、隣人の着る物を質に取るようなことをするのなら、日没までにそれを返さなければならない。なぜなら、それは彼のたった一つのおおい、彼の身に着ける着物であるから。彼はほかに何を着て寝ることができよう」(出エジプト22:26~27)と律法には記されているところからも、一般の庶民の暮らしが伺われます。その上着は、私たちの汗や油を吸い込み、ほこりや汚れをいっぱいつけたどうしようもないものです。そんな古い着物をベースに穴やほころびに「新しい布」、すなわち「イエスの義の衣」を引き裂いて継ぎをするなんてあり得ないことです。どう考えても、古びた上着を脱ぎ捨てて、イエスの義の衣を着るべきです。 もう一つは「ぶどう酒と皮袋のたとえ」です。ぶどう酒も当時の生活には欠かすことの出来ないものでした。この宴会の席でも当然ぶどう酒は振る舞われていたはずです。そのぶどう酒を保存するのに、樽や瓶などというものがないので、皮袋が使われていました。皮袋は、新しいうちは弾力性があって丈夫ですが、古くなると次第に弾力性が失われ硬くなります。そんなこわばり、くたびれた皮袋に、まだ発酵が続いている新しいぶどう酒を入れるとどうなるでしょうか。発酵中のぶどう酒はガスを発生し、古い皮袋を破いてしまいます。ぶどう酒の強い生命力に負けてしまうのです。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるできなのです。では、このことでイエスが伝えたかったことは何でしょう。良く語られるのは、次のような解釈です。「新しいぶどう酒というのは福音のことで、新しい皮袋はクリスチャン生活のことです。みなさんも、救いを受けたのだから、それにふさわしい正しい教会生活をしましょう。」さて、本当にこんな幼稚な教えを説くために、このふたつのたとえが必要ですか。このたとえが語られたのは、レビとそのなかまたちの宴会の場所です。「こいつらは、正しい生活をしていないじゃないか」という一見正しい人たちの側からの批判がベースにあったことを思い出してください。さらに、もうひとつ覚えておいてください。当時の一般常識として、「新しい着物で古い着物をつぐ人や、新しいぶどう酒を古い皮袋にいれる人は絶対いない」ということです。そんなことは当たり前でわかりきっていることなのです。このふたつのたとえは、その取り立てて言われなくてもわかっていると思っていることの本質的な意味が、実は分かっていなかったという話です。「正しい教会生活、あるべきクリスチャン生活をしましょう」というのは、このたとえの中では何のことですか。「古い着物」「古い皮袋」のことでしょう。そんな薄っぺらの自己満足や人の道徳に、十字架にかかられた御方の義を、アップリケみたいに、継ぎはぎするのですか。神の小羊が流してくださった尊い血を私たちの正しい行いとやらの皮袋にいれるのですか。そんなことは出来るわけがないじゃないですか。こういう基本中の基本を、全く間違って教えている教会が多いのです。多少のニュアンスは違うかもしれませんが、「新しいぶどう酒は神さまが与えてくださるもの、新しい皮袋は私たちの側で準備するもの」という捉え方で語られているはずです。この切り口だと、前半の着物のたとえとの整合性がわからないので、ぶどう酒のたとえが単独で語られているはずです。調べてみてください。たいていそのようになっていると思います。
アダムとエバが罪を犯したとき、あわてて腰を覆いました。ふたりでいちじくの葉をつづり合わせたのです。これが人の宗教であり、このたとえに当てはめるなら「古い着物」「古い皮袋」にあたります。(創世記3:6)しかし、神はそれでは不十分なので、新しい着物を与えてくださいました。それは皮の衣でした。(創世記3:20)これが、「新しい着物」「新しい皮袋」にあたります。念のため、お尋ねします。いちじくの葉は誰が準備しましたか。・・・・人です。皮の衣は誰か準備しましたか。・・・・・神です。「新しい着物」「新しい皮袋」は、罪を犯した私たちには決して準備できないものなのです。では、もうひとつの質問です。皮袋のもとは何ですか。・・・・・・それは動物のいのちです。この皮の記述は、聖書の一番初めに出てくる「血による贖いといけにえの型」なのです。
ぶどう酒についてもう少し考えてみましょう。皆さんもよくご承知のように、ぶどう酒は古いものの方が新しいものよりも価値があります。「この箇所でも、「だれでも古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物は良い』と言うのです」(ルカ5:39)と書かれています。これは、人の感想です。伝統的な宗教儀式や律法を重んじることは、確かに人の目には良いと見えるのです。レビのどんちゃん騒ぎの表面だけ見ていては、実際人を引きつけるような魅力はありません。しかし、そこにはイエスがおられるのです。レビはイエスがおられるからこそ、この宴を催したのです。イエスのいない抜け殻のような儀式とどちらに本当の価値があるでしょう。
「イエスが水をぶどう酒に変えられた奇跡」を思い出してください。(ヨハネ2:1~11)イエスの出されたぶどう酒を味わった者は、その出所を知りませんでしたが、その味を評価しました。それはおいしかったのです。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました」(ヨハネ2:10)と宴会の世話役は言っています。この世話役のコメントは、イエスの出されたぶどう酒の味が良かったということ以外に、当時の披露宴での常識を語っています。普通は、良いものを先に出して、皆が酔っぱらって少し味覚が麻痺し始めたころには、悪いのを出すのが当たり前なのです。つまり、最初は古いぶどう酒を出し、途中から新しいぶどう酒を出すのです。世話役は思ったはずです。この深い味わいは、何年もののぶどう酒だろうと。しかし、イエスのぶどう酒は古いぶどう酒ではありませんでした。その場で水から変えられた全く新しいぶどう酒です。原料はぶどうではなく「水」です。それは、まことのぶどうから絞り出されたまことの飲み物の型です。「宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた」(ヨハネ2:9)この水はただの水ですが、特別な水です。イエスのことばを信じた人たちが、みことばに従って満たした水です。いわばこの水は信仰によって息吹かれたみことばです。人がみことばを心から信じ受け入れるとき、みことばはいのちとなってその人の中で働きます。みことばの約束は私たちを酔わせるぶどう酒に変わるのです。新しい着物も、新しいぶどう酒も、新しい皮袋も、すべて主が一方的に与えてくださるものだということを、再度確認しましょう。そして、私たちは、パリサイ人の仲間入りをするのではなく、レビの宴につながりそこにただ主がおられることを喜び楽しみましょう。その「まことの飲みもの」の象徴であるそのぶどう酒がどこから来たかを知ることが一番大事なのです。(ヨハネ2:9)